エムス 電報 事件。 バート・エムス|皇帝が愛した温泉保養地(ドイツ)

プロシア参謀本部~モルトケの功罪

ドイツという国は、昔はバラバラな国の集まりで、プロイセン王国はその中で最も有力な国だった。 「普仏戦争」後のフランス。 普仏戦争の結果を受けて、日本は軍制をフランス式からプロイセン式に改め、参謀本部、国民皆兵制などの整備を始めました。 ですから「もう会わない」などと言っているのではなく、「微妙な部分は今後政府間の協議にしなさい」との意味で「これ以上(国王として大使に)話すことはない」としたのです。 <以上、飯田洋介『同上書』 p. この時フランスが宣戦布告をしたのはプロイセンだけでしたが、ビスマルクの目論見通り、バーデン大公国、ヴュルテンベルク王国、バイエルン王国はフランスを「ドイツ共通の敵」とみなし、プロイセン側に立って参戦することになります。 それに対してフランスのは、ホーエンツォレルン家にフランスが挟撃されることを恐れて反発し、外交問題に発展した。

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バート・エムス|皇帝が愛した温泉保養地(ドイツ)

侍従長からの至急報にビスマルクは食事の中断を詫びると電文を開き黙読します。 読んで損はない一冊です。 ドイツ統一を目指すビスマルクにとって、最大の障害はフランスだった。 するとビスマルクはモルトケに、 「連邦軍は開戦準備にどの位かかるものですか?」 と尋ねました。 パリでは共和国国防政府がつくられ,抗戦が続けられたが,1871年1月屈伏した。 プロシアは欧州の強国として自立するために東西の問題を解決・安定化する必要がありました。 ビスマルクはカトリック教会の支配下にあった学校も国家の支配下に置こうとしたが、カトリック教徒は屈せず、中央党の勢力は逆に増大した。

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エムス電報事件

まさにこの場所で、1870年7月13日 朝9時10分、フランス公使がドイツ皇帝ヴィルヘルム1世にアポ無し面会を行ったそうです。 このによってプロイセン国内に反フランスの声が盛り上がり、フランスでも反プロイセンの感情が強くなって、7月19日、ナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告し戦争が始まった。 ・・・・・やられましたよ。 スペインでは1868年に革命が起こり、イサベル2世(位1833〜68)が国外に逃亡して空位となり、1870年6月にプロイセン王家の支流ホーエンツォレルン=ジクマリンゲン家のレオポルトが後継者に指名され、レオポルトはこれを受諾した。 1・侍従長が発信したことが分かる部分を完全にカットした。 ビスマルクは「帝政が打倒された以上、前皇帝が始めた戦争を新政府が継続する必要はない」と休戦を提案しましたが、国防政府はこれを拒否し、新政府としてあらためて宣戦布告。 ナポレオン3世はプロイセン王に働きかけてレオポルトを候補から降ろすことに一旦成功したが、さらに1870年7月、フランス大使をエムスに滞在中のヴィルヘルム1世のもとに派遣して、将来にわたってスペイン王位継承に介入しないことを約束させようとした。

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エムス電報事件

もちろん朕は伯にいまだ何の知らせも受け取っていないし、また伯のほうがパリとマドリードの情勢について朕よりも早く情報を知っているので、朕がこれに関与する必要がないことが解かるだろうと言った。 内部の写真撮影は禁止なので、上は公式サイトから引用しています。 さらに雷が。 また、フランスにとってもナポレオン3世の対外膨張政策はメキシコ干渉の失敗など破綻し、その威信回復のために戦争を欲する一面がありました。 ビスマルクはアーベケン侍従長からの電報原文を宰相の執務室の金庫に入れて封印してしまいました。 ならば私がこの問題にこれ以上関与する必要もないことが分かっているはずだ」 そしてこう続けます。

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歴史に学ぶ「操作された情報」に惑わされない方法

そんな状況下では、めんどくさい政治問題なんて考える気にもなりません。 そのような時期に起こった普仏戦争に政府も大きな感心を寄せ、数人の役人を観戦武官として派遣し、プロイセン軍に従軍させています。 しかし、ナポレオン3世は猛反対。 「あとは18番ホールだけ」ってトコロであえなく中止となりました。 ちょうどその時、ビスマルクはローン陸相とモルトケ参謀総長らとテーブルを囲んで会食の真最中でした。

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エムス電報事件

すなわち陛下はいま公からの書状によりベネデッティ伯がパリより得た知らせを確認したので、これ以上は何も大使に言うことはない、と。 もとの電報はプロイセン王ヴィルヘルム1世の侍従長アーベケンがビスマルクに宛てたもので以下のものです。 パリに迫ったプロイセン軍は、翌1月18日にを占領し、そこでの皇帝戴冠式を行い、その10日後にパリは開城した。 この電報が新聞に公表されると、ドイツ人は激昂し、フランスは侮辱ととらえ、両国の世論がわきかえる中で、1870年7月19日、ビスマルクの術中にはまったフランスはプロイセンに宣戦を布告し、普仏戦争(独仏戦争、プロイセン=フランス戦争、1870. 戦争は、圧倒的に優勢な兵力と火器を有し、輸送と兵站(後方支援)の準備を終えていたプロイセン側がフランス領内に進撃し、9月1日で、ナポレオン3世が8万3千の将兵と共に降伏し、退位して亡命、フランス第二帝政は崩壊した。 ヴィルヘルム1世は丁寧にフランスの要求を拒絶し、 その事をベルリンにいるビスマルクに打電しました。 それにフランスの隣国に強大な国家ができることはフランスに多大な恐怖心を抱かせるものだったのです。 朝刊紙「北ドイツ日報」掲載が7月14日の話。

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エムス電報事件: ブラームスの辞書

ナポレオン3世は廃位となり,パリでは共和体のが樹立した。 「これは!戦争が始まるぞ!」 エムスのヴィルヘルム1世は、翌15日の朝刊「ケルン新聞」の一面に躍る「エムスにて」の文字に思わず立ち上がり「これは戦争になるぞ!」と叫びました。 日本ではかつてフランス式の軍制を取り入れていましたが、1860年代後半の明治維新以降はプロイセン式の軍制へ変更することも検討されていました。 ドイツ各地でフランスに対する不満が生じ、またフランスでは自国の要求を断ったプロイセンに対する不満が巻き起こりました。 145-6 による> ビスマルクの意図 エムス電報事件は「ビスマルクによる電文改竄」とか「ビスマルクの偽電報」などとも言われることがあるが、飯田氏の説明にもあるように、ビスマルクは単なる報告文を、プロイセン王がフランス大使による「恫喝」を毅然としてはねつけたというイメージにとれるよう、いわば誇大に発表したのであり、実際には「情報操作」というのが正しいようだ。 Episode 戦う前から決まっていた勝敗 モルトケ将軍率いるプロイセン軍は総数50万、よく訓練され、装備・兵站とも完璧な精兵たちであった。

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エムス電報事件 : 塩はうまくてまずいです

電報を受け取ったビスマルクは、故意に電文の一部を削除し、フランス大使がプロイセン王にしつこく迫り、立腹した王が大使を追い返したように書き改めて公表し、ナポレオン3世を挑発した。 プロイセンは鉄道による効率的な輸送と、参謀本部の緻密な指導で、勝利を積み重ねていきます。 』その後、陛下のもとに(レオポルト)公よりの書状が届きました。 ベネデッティは「ヴィルヘルム1世自らの口からジグマリンゲン家レオポルト公のスペイン国王立候補取り止めを宣言してもらいたい」こと、「レオポルト公の立候補はフランスの利害を侵害したり名誉を失墜させたりするために行われたものではない、という確証を与える」こと、「王家の者が同様な立候補をした時には必ず反対すると宣言する」ことを国王に求めました。 しかし、理由なしに戦争はできない。 これによって事件は終わったかに見えたが、フランスは、7月13日にエムスで静養中のヴィルヘルム1世のもとへプロイセン駐在フランス大使を派遣し、将来もホーエンツォレルン家からスペイン王を出さない保障を迫った。 多分、この意味は長年プロシアに駐在するベネデッティには良く伝わったのではないか、と思います。

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